毎年そうなのですが、この時期はとくに原稿仕事が忙しく、外で仕事がない日は自宅でひたすら仕事をこなしています。うっかりすると2〜3日ニュースも見なかったりするので、元横綱大鵬の納谷幸喜さんが亡くなったことも後で知りました。
競馬文筆業者のなかでは締め切りは守るほうだと思うのですが、ここ最近はスケジュールがタイトすぎて執筆が追いつかず、能力不足もあって原稿の完成が遅れ気味になっております。こんなところで業務連絡をして恐縮ですが、大変申し訳ありませんm(_ _)m
ブログをやっていて困るのは、原稿を待ってもらっている編集者に「締め切りが過ぎているのにブログなんぞ書いて」と思われることです。いや、じっさいに言われたことはないので単なる想像ですが、まぁたぶん思っているでしょう(笑)。でもそこは何卒お目こぼしいただきたく……。「血統屋メルマガ」まで手が回らないので、こちらは3月半ばまで間引き運転とさせていただきます。今週号はありません。ご了承くださいませ。
ずっと仕事をしていると能率が落ちるので、たまには息抜きが必要です。ふと手元のリモコンのスイッチを押すと、ちょうどNHK総合で『ファミリーヒストリー』という番組が放送されていました。毎回、ひとりの芸能人を取り上げて血筋のルーツをたどっていく、という内容ですから、血統を生業としている者にとっては血が騒ぎます(笑)。
そのときは女優の水野美紀さんの回でした。番組の途中から引き込まれるように観ていると、突如、競馬のシーンが始まりました。水野さんのご先祖が馬に関わるお仕事をされていたのです。母方の曽祖父・沢井正さんがその方。
沢井さんは青森県十和田市の出身。十和田には戦前、陸軍の軍馬補充部三本木支部が置かれていました。日本にいくつかあった軍馬補充部のなかで三本木支部は最大規模を誇り、総面積1万3100ヘクタール、飼育頭数約2800頭(1943年)という大所帯でした。2位の釧路支部が約850頭ですからその3倍です。1898年(明治31年)には青森県立畜産学校(当時は青森農学校)が設立され、この学校は当時、東京帝国大学に次ぐ獣医師の養成機関でした。沢井正さんは猛勉強をしてこの学校に合格し、獣医師の免許を取得。その後、競走馬の生産を始めました。明治時代のことです。
さすがNHKというべきか、当時の軍馬補充部の映像、戦前の競馬シーンがいろいろ出てきて「おおーっ!」と思わず身を乗り出しました。
ひょっとしたら沢井さんは日本競馬史に名前が出てくるようなお方なのでは、と期待しながら画面を見つめていたのですが、そうではありませんでした。沢井さんは競走馬生産に失敗して多額の借金を背負い、それを返済するために妻と子を残して北海道のニセコに渡ったのです。
個人的な話で恐縮ですが、じつは栗山の本家は十和田市三本木にあり、サイアーラインは代々ここで生活を営んできました。一族のなかには軍馬補充部に関わっていた者もいます。アマゾンのサイトで「軍馬補充部」とキーワードを入れて“本”を検索すると、『軍馬補充部に於ける農場経営と作業』という本がヒットします。著者の苫米地勇作さんはわたしの父方の祖母の弟です。うちの先祖と沢井さんは顔見知りだったかもしれない、と思うと急に身近な話になったような気がしました。青森県立畜産学校は戦後、三本木農業高校となりました。わたしの父はここの卒業生です。つまり、沢井さんの後輩です。
軍馬補充部があった土地柄だけに、周辺にはサラブレッド生産者も少なからずいました。たしかカブトシロー(有馬記念、天皇賞・秋)は三本木で生まれたはずです。ヒカルメイジ、コマツヒカリの盛田牧場や、グリーングラス、タムロチェリーの諏訪牧場も車で行けばすぐです。
北海道へ渡った沢井さんのその後の人生は、やはり馬とは切っても切れないものでした。ニセコで馬の診療所を開き、借金を返済して家族を十和田から呼び寄せ、地域で馬に尽くす人生を送ったそうです。とてもいい話でした。あたりまえのことですが、競馬史には成功者のストーリーしか記されません。しかし、現実にはその何十倍もの人々が夢破れて競馬の世界から去って行ったわけです。沢井さんは競走馬生産に失敗したあと、めげることなく人生をやり直し、獣医師として誇り高く馬とともに生きました。市井に生きた人々の埋もれた歴史を掘り起こす素晴らしい番組だと思います。
翌週は徳光和夫さんの回。水野美紀さんの回がなかなかよかったので見てみたところ、なんと今度は徳光さんが福永祐一騎手の遠い親戚であることが判明(祖父の兄の妻の兄の子孫なのであまりにも遠すぎですが……)。2週連続の競馬ネタで得した気分になりました。