パーフェクト種牡馬辞典


Cigar 死す


通算獲得賞金999万9815ドル(当時の北米記録)、16連勝(当時の北米タイ記録)、米年度代表馬2回など、偉大な記録の数々を打ち立てた名馬 Cigar が、10月8日、米ケンタッキー州で死亡しました。24歳。種牡馬入りしたあと無精子症であることが判明し、1頭も子孫を残せなかったことでも知られています。功労馬としてケンタッキーホースパークで余生を送っていました。
http://www.pedigreequery.com/cigar2



ダート路線で芽が出ず芝に転向してブレイク、というケースはアメリカではよくありがちですが、Cigar はその逆。芝路線で頭打ちになってダートを走らせてみたら凄かった、という希有な例です。
http://ahonoora.com/cigar.html

馬主のアラン・ポールソンは当時最も勢いのある馬主で、90年代初頭に世界的な注目を集めたアラジ、その前には Theatrical なども所有していました。アメリカ国旗をあしらった勝負服は、ダート王道路線に颯爽と現れた Cigar のイメージにぴったりで、アメリカンドリームを具現化した存在、といった趣がありました。95、96年のブリーダーズCを現地で観戦したのですが、凄まじい人気でした。

米ニューヨーク州のベルモントパークで行われた95年のブリーダーズCクラシックは、Cigar にとってはまさに飛ぶ鳥を落とす勢いだったころで、負けるシーンは想像できませんでした。そのとおり、圧倒的な人気にこたえて勝ちました。3〜4コーナーの中間で Cigar が外からまくって先頭に立ったとき、実況のトム・ダーキンが「Cigar!」と絶叫。その瞬間、スタンドがワッ!と盛り上がり、スタンドの椅子に座っていた観客がバネで弾かれたように総立ちになったことを思い出します。まったくの楽勝でした。
http://youtu.be/-9cgu0Y6G7E

カナダのウッドバインで行われた翌96年は引退レース。連勝記録が途絶えたあとで、直近の3戦で2敗を喫するという明らかにピークを過ぎた状態。しかも、裂蹄の不安も抱えていました。今年は厳しいかな……という情勢ながら1番人気に推されたのは、この馬を応援するファンが多かったからでしょう。

当時、『週刊競馬通信』に書いた観戦記から引用します。

「この馬が人々にどれだけ愛されているか。それをパドックへ行って改めて実感した。柵の周りは鈴なりの観衆であふれ、入り込む余地がない。彼らのほとんど が Cigar 目当てなのだ。人の輪の後ろを歩いていると、Cigar に対する声援が途切れることなく耳に入ってくる。空いている場所を見つけて強引に身体をもぐり込ませ、柵沿いスペースを確保した。隣にいたのは70歳過ぎの白人の老婆だった。どうやらアメリカから来ているらしい。煙のような白髪と、ビー玉のような緑色の目玉が印象的だった。彼女は皺だらけの手で柵を握り、大きく見開いた眼で筆者を見つめ、つぶやいた。
『シガーはね、シカゴでは私の目の前を6回も通ったのよ』
 おそらく、7月20日にアーリントンパークで行われたサイテーションチャレンジS (ダート9F)のことをいっているのだろう。こんなお婆さんをカナダまで呼び寄せてしまうのだから Cigar は偉大だ。」

「1コーナーのはずれにある馬場入口から各馬が入場を開始し、“6番”のゼッケンをつけた Cigar が姿を現すと、観衆から拍手が沸き起こった。スタンド前をポニーとともにゆっくりと通過する間、彼の最後のレースを見ようと集まった観衆は立ち上がって拍手を続け、1分ほど鳴り止まなかった。そこにはアメリカ競馬を引っ張ってきたヒーローに対する称賛とねぎらいが込められていた。」

レースは、いつものように外からマクったものの、全盛期の力はすでになく、直線で Alphabet Soup、Louis Quatorze との叩き合いに敗れて3着に終わりました。手綱を取ったベイリー騎手は、厳しい競馬になることは分かっていたでしょう。それでも、姑息な手に走ることなく、王者にふさわしい競馬をさせました。それが Cigar という希代の名馬に対する敬意だったと思います。
http://youtu.be/JCg6CT-2eRs

Cigar の姿を思い出そうとすると、このレースが終わった直後、黄昏のなかを引き揚げてきたシーンが頭に浮かんできます。颯爽と勝ちまくっていたころの姿より、なぜか印象に残っています。首筋をポンポンと叩いて労をねぎらうベイリー騎手の表情が18年経ったいまも忘れられません。




史上最強の新潟2歳王者グリンモリー


25年前の夏、追い切り情報を求めてコンビニで夕刊紙を買い求めたところ、ある2歳馬の調教記事に目が留まりました。記事の主役は破格の時計をマークしたグリンモリー。当時はPOGが一般に浸透していなかったこともあり、現在に比べると2歳戦の注目度は低く、デビュー前の若駒にスポットライトを当てた新聞記事など異例中の異例。新聞ダネにせざるをえないほど素晴らしい動きだったわけです。

一躍話題の馬となったグリンモリーは、稽古の良さを活かしてデビュー戦を大楽勝。関東のトップジョッキーであった岡部幸雄騎手が手綱を取り、しかも絶賛のコメントを出したので、相当な器だろうと多くのファンが確信したはずです。わたしもそのひとりでした。かつて岡部騎手のお手馬だった皇帝シンボリルドルフと比較する声も少なくなかったですね。

2戦目に新潟3歳S(当時の馬齢表記は数え年)を使うと知ったときは、率直にいって「えっ、ウソでしょ?」と思いました。4年前のシンボリルドルフと同じく、クラシックを見据えて慎重にローテーションを組むだろうと思っていたからです。当時、新潟3歳Sは芝1200mでした。25年前であってもクラシックを狙うローテーションとしては違和感のあるものでした。

グリンモリーは新潟2歳Sで見事レコード勝ち。しかし、その代償として屈腱炎を患うことになりました。優秀なマルゼンスキー産駒がたびたび悩まされた宿命ともいえる病です。あのときの落胆と虚脱感はいまだに忘れられません。
http://db.netkeiba.com/horse/ped/1985103703/



グリンモリーが再び競馬場に姿を現したのは1年7ヵ月後。とっくにクラシックは終了していました。ちなみにダービーを勝ったのは同じマルゼンスキー産駒のサクラチヨノオー。そのほかオグリキャップ、サッカーボーイ、スーパークリークなどの強豪が台頭し、時代は平成に変わっていました。

残念ながら、グリンモリーはもはや完全に過去の馬でした。屈腱炎で長期休養したあとなので能力は元通りにはなりません。それでもパラダイスS(OP)を勝ち、4歳夏の七夕賞(G3)では3着と健闘しました。脚もとが無事であったなら、88年世代の名馬群に一枚大駒が加わっていたでしょう。

グリンモリーは「マルゼンスキー×セントクレスピン」という組み合わせ。同馬の引退から8年後、98年の日本ダービー(G1)をスペシャルウィークが勝ちました。母キャンペンガールはグリンモリーと同じ「マルゼンスキー×セントクレスピン」。武豊騎手に導かれたスペシャルウィークの圧勝劇の余韻に浸っているちに、昭和末期の新潟2歳王者の姿がふと脳裏をよぎり、少しだけ残念な気分がぶり返したものです。
http://db.netkeiba.com/horse/ped/1995103211/






ダイナガリバー死す


4月8日にシリウスシンボリが死亡し、生存する最年長のダービー馬となったかりだったダイナガリバーが、4月26日朝、疝痛のため死亡しました。29歳。

3歳春の共同通信杯を1分48秒7という抜群のタイムで優勝したとき、今年のダービー馬はこれかなという予感がありました。サルノキングやミスターシービーでも出せなかった48秒台を楽々と出したのですからモノが違うと感じました。しかし、次走、出走予定だったスプリングSが雪のため順延となり、結局順延したレースには出走せず、皐月賞に直行しました。結果は10着。実力の高さは誰もが認めるところでしたが、ローテーションの狂いは手痛い誤算でした。順調さを欠いたことが嫌われて日本ダービーは3番人気。しかし、ここで地力を発揮し、見事栄冠を勝ち取りました。

このレースは、NHK特集『ダービー・北の大地の戦い 〜ダービー優勝馬誕生の秘密〜』という良質のドキュメンタリーによっても印象深いものになりました。ゴンドラ席でレースを見守る故吉田善哉さんの姿は貴重な映像記録だと思います。社台ファームはそれまで、桜花賞、オークス、皐月賞を制したことがあったのですが、ダービーはまだでした。ライバルのシンボリ牧場は、すでにサクラショウリ、シンボリルドルフ、シリウスシンボリと3頭のダービー馬を誕生させていました。ダービー優勝の瞬間、関係者が歓喜を爆発させる輪の中心で、さすがの吉田善哉さんも感極まった表情を隠すことができませんでした。

ダイナガリバーは暗い翳を一切感じさせない健康優良児、もっといえば金太郎のようなイメージでしたね。父は飛ぶ鳥を落とす勢いだったノーザンテースト、母の父は障害王バローネターフを送り出したバウンティアス。半兄には重賞を3勝したカズシゲがいます。スタミナと底力あふれる力強い配合で、Hyperon 5・4×4というクロスがありました。
http://db.netkeiba.com/horse/ped/1983104089/



底力があったので本番に強いタイプで、秋はセントライト記念、京都新聞杯と続けて4着に敗れたものの菊花賞2着。そして暮れの有馬記念は優勝しました。3歳時にダービーと有馬記念を勝ったのはシンボリルドルフに次いで2頭目です。切れ味で勝負するタイプではなかったので、先行して粘らせる競馬が得意な増沢末夫騎手は手が合ったと思います。

種牡馬としては、桜花賞馬ファイトガリバーを送り出しました。鞍上の田原成貴騎手は、ダイナガリバーが勝ったダービーで2着となったグランパズドリームの手綱を握っていた、という因縁がありました。母の父としてはメイショウバトラーの名前が挙がります。衰え知らずのタフさはダイナガリバーの血に負う部分が大きかったのではないかと思います。

ノーザンテーストの大成功によって、それまで数に頼っていた感のあった社台ファームが内容の面でも他の追随を許さなくなり、やがてトニービン、サンデーサイレンスの購買につながっていきます。ノーザンテーストと、黄色と黒の縦縞の勝負服は、我が国の競馬に到来した新しい波の象徴でした。「ダイナガリバー」という馬名を聞くと、そうした変革の予感に胸をときめかせた80年代の気分を思い出します。




シリウスシンボリ死す


 85年7月に行われたキングジョージ6世&クイーンエリザベスS(英G1・芝12f)は、日本時間の深夜にフジテレビで生中継されました。5月に日本ダービーを勝ったばかりのシリウスシンボリの海外遠征初戦。何日も前からスポーツ新聞で特集記事が組まれるなど注目度の高い一大イベントで、さすがに勝つとは思いませんでしたが、重馬場のダービーを3馬身差で完勝していたので、ヨーロッパの深い芝でもそれなりに善戦してくれるのではと考えていたのですが……。


現実は厳しいものでした。道中早々と岡部騎手の手が激しく動き、最終コーナーにたどり着く前に集団から脱落するという手合い違いのレースぶり。同い年の3歳馬がワンツーフィニッシュを決め、2着馬が牝馬(Oh So Sharp)だったこともショックでした。まさに衝撃体験アンビリーバボー。日本とヨーロッパはこんなにレベルが違うのかと途方に暮れる思いでした。


約2年にわたる長期遠征で一度も勝利を挙げることはできませんでしたが、日本のホースマンに与えた影響は小さくありませんでした。“このままではダメだ”という危機感が共通意識となり、海外とのレベル差を埋めるためにどうすればいいかということを、それまで以上に真剣に考えるようになったと思います。


80年代後半から海外の一流血統が続々と日本に輸入され、日本馬のレベルを押し上げていきました。プラザ合意に端を発する円高が表向きの原因ですが、その裏側にはシリウスシンボリがヨーロッパのトップクラスに歯が立たなかったという危機感もあったと思います。


シリウスシンボリのヨーロッパにおける最高着順はフォワ賞(仏G3・芝2400m)の2着。遠征初期は注目を集めていたものの、だんだん存在感が薄れていき、最後のほうはテレビの競馬番組で「フランス遠征中のシリウスシンボリは○○賞で△着でした。がんばってほしいですね」とわずか5秒ほどで消息が伝えられる程度になっていました。天才と言われたサッカー選手が海外チームに移籍してベンチ要員となってしまったような、微妙なもの悲しさがありました。


日本に帰国したときには、競走馬としてのピークを過ぎており、しかも走りがヨーロッパ仕様で重くなっていたせいか、若武者のように溌剌とした以前の活気は見られませんでした。種牡馬としても、気性の悪さと鈍重さを伝えるモガミ産駒であったため、目立った活躍馬を送り出すこともなく用途変更となりました。
http://db.netkeiba.com/horse/ped/1982103448/



このような事情で同期のミホシンザンやサクラユタカオーなどに比べると影が薄いのですが、日本競馬の端境期にあって、我が国のレベルを正確に知らしめるという重要な役割を果たした馬でした。シリウスシンボリが照らした座標を手掛かりに、その後、我が国の競馬は前進していくことになります。





88年の日本ダービー馬サクラチヨノオー死す


 2年前の夏、オグリキャップが死んだ際、旧ブログにこう記しました。


「自分とオグリキャップの個人的な関係を語れば、3歳時は“幻のダービー馬”と呼ばれていることに不快感を持っていました。本物のダービー馬サクラチヨノオーのファンだったからです。」
http://blog.keibaoh.com/kuriyama/2010/07/post-3b21.html


なぜファンになったかというと、理由は単純明快、POGで指名していたからです。同世代にはオグリキャップを筆頭にサッカーボーイ、スーパークリーク、ヤエノムテキ、バンブーメモリーなどそうそうたる名馬がそろっていました。それらの実力はもちろん認めますが、いちばん好きな馬はサクラチヨノオーのまま揺るぎませんでした。デビュー戦から引退レースまで100円の単勝馬券を買い続けてコレクションにしたほどです。
http://db.netkeiba.com/horse/ped/1985100743/



何年か前にグリーンチャンネルで須田鷹雄さんとご一緒したときに、お互いPOGでサクラチヨノオーを持っていた、という共通点で話が盛り上がりました。結論は「当時のPOGは簡単だった」。


POG誌がない時代で、情報源といえば『週刊競馬ブック』に掲載される名簿ぐらいしかありません。それだけでどうやって走る馬を探すのかというと、大手馬主の良血馬を指名する、というただそれだけです。情報が少ないと悩む必要がありません。当時は社台よりもメジロ、サクラ、シンボリ、トウショウあたりが人気でしたね。


サクラチヨノオーはサクラトウコウ(七夕賞、函館3歳S)の全弟。単純にそれだけで選んだ馬でした。しかし、血統は同じでも、馬体には違いがあります。兄トウコウがガッチリとした短距離向きの体形だったのに対し、弟チヨノオーは細身でしなやかなタイプ。兄と違って2400mをこなした理由はここにありました。ちなみに、馬名は当時の横綱千代の富士から採られたものです(朝日杯3歳Sを勝った半弟のサクラホクトオーは同門の後輩横綱北勝海から)。


日本ダービーは小島太騎手(現調教師)の名騎乗といっていいでしょう。騎乗ぶりにムラがあるため競馬場で野次られることの多かったジョッキーですが、ハマったときの鮮やかさは比類がありません。誰にも真似ができない乗り方だったと思います。
http://www.youtube.com/watch?v=SwM6mi71q5Q


ゴール後の派手なガッツポーズには賛否両論がありました。当時購読していた『週刊競馬通信』の読者投稿欄にそれを咎める投書が載ると、翌週、「ダービーを勝って我を忘れるほど嬉しいのは当然じゃないか、ジョッキーだけじゃなくチヨノオーだってガッツポーズをしていたんだよ」という熱い反論がありました。それに対する再反論は「そんな写真があるならぜひ見せてください」という冷ややかなもの。思わず笑ってしまいました。ダービーのガッツポーズに目くじらを立てなくても……という心情だったので、翌週の誌面にチヨノオーのガッツポーズ写真が掲載される神展開を期待していたのですが、さすがにそれはありませんでした(笑)。


話を血統に戻します。セダン(伊ダービー馬)を通じた Prince Rose クロスは、府中の中長距離に実績があります。日本ダービー馬コーネルランサーや、3200mだった時代の秋の天皇賞を制したスリージャイアンツなどがそうでした。
http://db.netkeiba.com/horse/ped/000a000b9e/



Prince Rose は長くいい脚を使えるスタミナ血統なので、このクロスは東京コースに合います。たとえば、ミルジョージ産駒のこのパターンはだいたい東京向きでしたね。ジャパンC2着のロッキータイガー、オークス馬エイシンサニーがその代表例です。ロッキータイガーは Prince Rose 5×5・6。
http://db.netkeiba.com/horse/ped/1981105953/



種牡馬としてのサクラチヨノオーはイマイチでした。重賞勝ち馬はサクラエキスパート(愛知杯)とマイターン(東海ウインターS)のみ。あとはナリタブライアンが勝った皐月賞で2着となったサクラスーパーオーが目立つ程度です。同世代の名馬たちはサッカーボーイを除いておおむね種牡馬としては不振でした。競馬場を賑わした名馬がそのまま種牡馬としても成功する現在とはだいぶ状況が異なります。


ここ1〜2年で、スーパークリーク、オグリキャップ、サッカーボーイ、サクラチヨノオーと、この世代の名馬が立て続けに鬼籍に入りました。残っているのはヤエノムテキとバンブーメモリーぐらいでしょうか。あの時代がどんどん遠くなっていきます。





東久留米団地を歩く


 元日は酒を抜くためのウォーキングをしてきました。自宅近くを歩いても飽きるので、電車で1時間ちょっとのところにある東京都東久留米市上の原へ遠征。なぜこの場所を選んだかというと、小学1、2年生のころ通っていた東久留米市立第四小学校が今年3月に廃校になると聞いたからです。最後の姿を見ておこうと思いました。

この小学校は、東久留米団地(通称上の原団地)の一角にあり、そこから通う生徒が大多数を占めます。しかし、老朽化した団地を取り壊すため住民が転居し、生徒数が激減していました。

高度成長期に全国に建てられた団地は、現在そのほとんどが耐用年数に達しており、取り壊しの波に晒されています。東久留米団地は1962年の完成ですから今年でちょうど50年目。わたしは72年6月から77年3月まで(4〜8歳時)住んでいました。不惑を迎えたいいオッサンになっても、心の故郷として決して忘れることができないのが東久留米であり、このごくありふれた郊外の団地なのです。

団地に入ると、公団住宅だったエリアは、工事用のフェンスが張り巡らされて立ち入ることができません。一方、公務員住宅のエリア(昔はここに住んでいました)は、住民の方がまだいらっしゃるものの、その数はごく少ないようです。近々取り壊される運命なのでしょう。心の故郷を自分の目で見るのはおそらく今日が最後です。


ほとんど人の気配がない広大な団地。ベランダに洗濯物はなく、窓や門扉は固く閉ざされています。かつては人の流れが途切れず賑わっていた道は見渡すかぎり誰もいません。上空を舞うカラスが時折カァーと鳴き、野良猫がこちらをじっと見ています。音のない世界に迷いこんだかのように静かです。まるで人が消えて街だけが残ったSF映画の一シーンのようです。


小学校は冬休みなので立ち入ることができませんでした。校舎を目に焼き付けてその場を去りました。あちらの辻、こちらの通り、向こうの団地に目をやると、そのたびに子供時代の自分や友達の姿を幻視することができました。

古(ふる)団地 昭和は遠く なりにけり

2時間ほどかけて思い出の場所をひとつひとつ巡り、思わず口をついて出たのが中村草田男の名俳句をもじったこのインチキ川柳、というのが悲しいところです(笑)。とにもかくにも、高度成長期の輝かしい象徴だった団地が歴史的役割を終えていくその終着点を見た思いでした。

無人の団地の真ん中に立ち、そろそろ帰ろうかと思案していたところにマグニチュード7.0(震度3)の地震が発生。四階建ての団地群がいっせいに揺れ、窓枠がガタガタと鳴りました。揺れが収まると、何ごともなかったように元のしんとした団地に戻りました。




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